ポーラ美術館館長 野口弘子さんに聞いた経営者こそ向き合いたいアートの魅力【アート思考探求マガジンvol.8】
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2002年に箱根に誕生したポーラ美術館。ポーラ創業家2代目の鈴木常司氏が40数年かけて収集したコ レクションを中心に印象派から現代アートまで多岐にわたる作品を収蔵し、「箱根の自然と美術の共生」 というコンセプトを掲げて展覧会を開催しています。そして、2023年7月からポーラ美術館の館長に就任 したのが野口 弘子さんです。野口さんは国際的なラグジュアリーホテルチェーンであるハイアットなど 30年以上ホテル業界で活躍してきた方です。そんな野口さんに、ポーラ美術館館長に就任した経緯 や、就任後に取り組んできたこと、経営者とアートとのかかわり、アーティスト支援について聞きました。
目次
初めて美術館に訪れる方も、世界中の美術館に行き慣れている方にも最高峰のホスピタリティを
平山:ホテル業界から美術館館長への転身された経緯など、ご質問したいことがたくさんあります。本日は弊社の野本と共にインタビューさせていただきます。野本はポーラ・オルビスグループに勤めていたことがあり、ポーラ美術館にゆかりがあります。
野本:私はポーラ美術館のワークショップを受講して人生観が大きく変わった経験があり、今日の機会を楽しみにしておりました。
野口:お二方のように、女性が事業をすすめている姿を見ていると応援したくなります。
平山:野口さんから励ましの言葉をいただき、身が引き締まる思いです。早速ですが、ホテル総支配人からポーラ美術館の館長に就任された経緯を教えていただけますか?
野口:2020年3月に58歳でハイアットを退職して、ホテル業界のために幅広い活動を始めた時にポーラ美術館の館長の打診をいただきました。
私は29歳からホテル業界にいて、2006年から箱根にあるハイアットのホテルの総支配人を11年間務めていました。VIPのお客様をポーラ美術館に自らご案内する機会もありました。今回お声をかけて頂いたのは、ポーラ美術館が求めるホスピタリティ視点、館のマネジメント、マーケティング、地域連携という点です。
私としては未経験の業界で不安はあったものの、ホテルやマネジメントの経験、箱根町民としての立場など役に立てることがありそうだと思いました。非常にチャレンジングなポジションでしたが、お引き受けしました。
野本:取り組まれていることや、これから変革していくことについても教えてください。
野口:私の役割は明確です。長くホテルにいた経験を生かし、今までポーラ美術館を含む美術館の業界がやってこなかったことも含め新しいことを進めていきたいと思っています。例えば今日、無料送迎バスでお越しいただきましたよね。
野本:はい。とてもかわいいラッピングのバスでした。
野口:無料送迎バスは2024年4月から運行を始めたばかりです。ポーラ美術館は箱根湯本駅から電車や路線バスを乗り継ぐしかなく、アクセスがよくない点が課題でした。そのため、強羅駅から美術館に向かう無料のシャトルバスを設けたのです。美術館までに至るアクセス自体も楽しい体験のひとつになればと思っています。
平山:そうだったんですね。確かにここに向かうまでに気分が高まりました。
野口:2024年4月から受付と看視を「ゲストリレーション」としてホスピタリティ強化にも着手しました。
ポーラ美術館は箱根という観光地にあるため、アートにあまり興味がない方もいらっしゃいます。例えば、大涌谷に行こうと思っていたけど、雨が降ったので急遽ポーラ美術館に来ることにしたという方もいます。ふだん美術館に行かない人にとっては、ここでの体験がアートに興味をもったり好きになったりする大事なキッカケになるかもしれないんです。
「箱根の自然と美術の共生」というコンセプトを掲げるポーラ美術館
平山:箱根にあるからこそ、さまざまな方が来られるんですね。
野口:美術館に行き慣れない方は、美術館に入るにも緊張するはずです。来館者の方が「自分は受け入れられている」と感じられるようなホスピタリティをもった美術館にしたいと思いました。
そこで、美術館の運営部を立ち上げて、カスタマージャーニーに沿ってお客様とスタッフの接点をどう作っていくかを考え、改善に取り組み始めました。6月からはチケット販売などの手続き作業は券売機に切り替え、その分スタッフは前に出ることでお客様との接点を増やしていきました。
また、美術館に併設したレストランのメニューについても、今までメニューの変更は年に二度でしたが、 季節の変化に応じて数か月ごとにメニューを変えていくことにしました。レストランから見える景色は季節によって変わっていきます。その時々の景色に合わせて、メニューの食材や色合いなどを楽しんでいただきたいと感じました。
平山:実は、取材の前にレストランでランチをいただきました。色鮮やかで、とてもおいしかったです。
これからの美術館に求められるのは「展示」に終わらない「全体プロジェクト」的思考
野本:今まで美術館が果たしていた役割と、AIやSNSが主流となるこれからの美術館とでは求められる役割が変わっていくように思います。ポーラ美術館を含め「美術館」の今後の役割の変化をどのように感じていますか。
野口:アートを観る場所から、その場でしか体験できないことを提供する”体験”場所に変わってきていると感じます。以前開催していたフィリップ・パレーノ展は天気のいい日と雨の日、時間帯によっても見え方がまったく変わるものでした。その時々のシーンは異なり、受けた印象も異なるでしょう。来館者がス マホで撮影しSNSにあげて頂く写真は私たちですら見たことのない光や景色だったりもしました。
平山:ポーラ美術館はアーティストにとっても貴重な美術館です。以前「シン・ジャパニーズ・ペインティング」展が開催された際、私の友人でもあるアーティストの吉澤舞子が参加し、音楽のライブやダンスをさせてもらったと聞きました。「ポーラ美術館でも前例のないことなのにOKしてもらえた」と驚いていました。美術館とアーティストとのコラボレーションについて、野口さんはどのようにお考えですか?
野口:アーティストをリスペクトし、寄り添い、表現したいことを応援するのは美術館の役割だと思います。
前述したフィリップ・パレーノ展では、アーティストから映像作品の後に太陽光を室内に入れたいという要望があり、それに応えました。太陽光は絵画にダメージを与えるため、一般的には美術館では御法度 ですよね。
平山:アーティストは美術館にどのようなことを求めていると思いますか?
野口:現代アートにおいては展示はアーティストとその美術館が、ひとつのプロジェクトを作り上げていくようなものだと思います。「この空間なら、こんな面白い表現をやってみたい」と、アーティストが自由な発想や表現を考え得る独創性のある場とキュレーターとの密な共同作業がより求められていくのではないでしょうか。
ですから、企画展はもとより個展においても「あの作家だから観に行きたい」だけでなく、「あの作家とポーラ美術館だから観に行きたい」と言っていただきたいです。そして、世界中の美術館へ足を運んで いる方から、人生で初めて美術館に来た方まで幅広い方々に、それぞれのアートの体験価値を最大化 していける美術館にしていきたいですね。
平山:「美術館をどうやって楽しんだらいいかわからない」という声をよく聞きます。野口さんがおすすめする美術館の楽しみ方を教えていただけますか?
野口:何の情報も持たなくとも自分自身の見方や感性でアートを観るのももちろんいいかと思います。また、絵が描かれたアトリエや屋外の雰囲気、フレームに収まらない背景はどうなっているかを想像してみたりするなどもおすすめです。以前の私もそうでした。
館長になってからは、アートの勉強会などにも参加して知識が増え、よりアートを観る楽しみが広がりま した。少し調べれば情報収集できる時代なので、作家や展示の背景やテーマを知っておいたりすると、 また全然違った楽しみ方ができることに気づき沼にはまっています。
経営者はアートと向き合うことで、自分との対話をしている
平山:ホテルの支配人をされていたときに、VIPの方をポーラ美術館に案内されていたとお聞きしました。経営者の方々は、アートが好きな人が多いですか?
野口:お好きな方が多いですね。VIPの方に同伴して美術館を歩いているときに、ご自身に向き合っていらっしゃると感じることは多かったです。経営者という立場は弱音を吐けないし、どんどん決断して組織を動かしていかなければなりません。非常に孤独な存在なので、何かに心を寄せたいときもあると思います。ストレスの解消もそうですし、自分の考えや決断はこれでいいんだろうかと悩んだときに、アートを見つめていると冷静になり違う視点を得られることがあるように思います。
ポーラ美術館は、ポーラ創業家二代目の鈴木常司さんが40数年にわたり収集したコレクションがその 中核です。常司さんは、ピカソの《海辺の母子像》という絵画がとても好きで、大事な決断をする前にいつもじっと眺めていた、というエピソードがあります。
私自身も長らくホテルの総支配人というポジションにいたので、その気持ちはよくわかります。寝る前に目をつむって「今日の決断はよかったんだろうか、目の前にある課題に対して、明日は何をするべきだろうか」と自問自答する時間が今もですが日常です。寝る前の心落ち着くような時間の効果がアートに もあるようにも感じます。アートと向き合うことで、自分の気持ちが平静になるような感覚です。
平山:とても共感します。頭の中が色々な考えでごちゃごちゃしているとき、アートを観ていると没入する ことができます。小説や映画と違って、アートは言葉を持っていないからこそ没入感も大きいです。過去に誰かが想いをもってつくった作品がただ目の前にある。その受け取り方は自由だからこそ、自分との対話ができます。
野口:「アートとは未完成なもので、そのアートを観る人の想いが入ることで完成する」と話す方もいらっしゃいます。奥が深いですね。
美術館×ホテル。自分の経験を活用して多面的にアーティストを支援したい
野本:ポーラ美術館の運営母体であるポーラ美術振興財団ではアーティストの海外研修などの支援をされていますよね。
野口:アーティストの海外研修は意義深いと思います。
アーティストに限った話ではないのですが、日本人はグローバルの環境下でしっかり主張をすべきだと感じます。外資系の企業で長く働いていると、グローバルミーティングでも比較的おとなしいのが日本人 グループです。主張しないと何も伝わらないんです。
だから、日本のアーティストたちも謙虚さだけではなく、強いメンタルをもって世界にでて”語れる強さ”が 必要になってくるのではないでしょうか。
実は、私はポーラ美術館の館長をしながら、ホテル業界の仕事も続けています。ホテル業界の次世代 を育成する「GM GYM」というプログラムを業界の同志と立ち上げ講師&メンターをしています。ハイアッ トという大きなホテルチェーンを50代で辞めて、60代はホテル業界の底上げのためにできる仕事をしたいと考えていたからです。コンサルティングファームにもいたので、要望をいただいてホテル支援の仕事も行っています。
最近は自身のホテル業界での経験も生かした、アート普及やアーティストの支援もできるのではないかと考えます。先日は新しくできるホテルに飾るアート選択の方向性について相談を受けました。ホテルと アートの密接な関係は私の2つの領域を結びつけてくれます。
平山:ホテルからアートの相談が来るのは、野口さんならではですね。
野口:こういう話も以前や館長になりたての頃でしたら「わたしに相談されても」と答えていたかもしれま せん。館長に就任してから、学芸員から若手のアーティストの話を聞いたり、実際にアーティストの方々 にお会いして、アートに関わる知識と経験がどんどん蓄積されています。ホテルとアートという2つのエ リアを行き来しながら、私ならではの強みでアート普及やアーティスト支援に関わることができればそれは嬉しいことです。
今回のゲスト ポーラ美術館館長 野口 弘子 ホテル業界でコンサルティングやマーケティングに従事。2006年「ハイアットリージェンシー箱根リゾート&スパ総支配人」に。開業準備から11年勤める。後に沖縄で総支配人としてホテル開業に携わった後、20年からコンサルや総支配人を育成する「GMGYM」の運営に関わり、2023年7月よりポーラ美術館館長に就任。地域密着とホスピタリティの強化という視点から美術館の運営に新たな風を吹き込んでいる。 ポーラ美術館公式HP
アート思考探求マガジン「Hello ART Thinking!」 アート思考を紐解くインタビュー企画 第一線で活躍する経営者やクリエイターは、アーティストにも似た感受性や視点が備わっているようにみえる。一体なぜ?マガジンでは、彼らの物事の捉え方や感受性を育むまでに至ったパーソナルな体験を対話によって紐解き、アート思考を再定義します。インタビュワーはオフィスアートを運営するNOMALARTCOMPANY代表の平山美聡。アーカイブはこちら
アート思考探求マガジン「Hello ART Thinking!」
取材:2024年6月 文/久保佳那,写真/久保佳那
企画・編集/野本いづみ
Hello ART thinking!次回予告 現在クリエイターや経営者をインタビュー中です。お楽しみに。アーカイブはこちら
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